其の弐〜銀座考〜


 私共、東哉が銀座に店を構えたのは昭和11年6月です。2.26事件の大変な時代に父である先代の努力が結実したのです。京都でこしらえた品物を東京のお客様にお見せしたいという父の思いがかなったのですが、それにしても何故銀座だったのでしょうか。他の場所とどこが違うのか…それを考える事が今後につながる様な気が致します。

 銀座のそもそもの成り立ちは、徳川幕府が開かれるとすぐ、家康公が貨幣鋳造の銀座を駿府から今の銀座2丁目辺りに移動させた事に始まったと事典にはありますが、街として整備されたのは明治6年から9年にかけて、時の政府の肝いりで京橋・新橋間を西洋風のレンガ街にしたことから出発したようです。従って、まだ百三十数年しか経っていないのですが、その当時銀座に出店されたお店は今は残っていないと聞いております。一軒もないのかどうか定かではありませんが、もしあっても数える程でしょう。私共の出生の京都と比べますと、店の入れ替わりが激しいのが銀座の特徴とも言えます。各地元で人気を博し、商売に成功した店が続々と乗り込んでくるのですが、「店のうしろには人気商品を考え出す感性やこしらえあげる職人と技術、それらを支え続けて下さった多くのお客様等、全てを引っさげて出てくるんや」とよく父は言っていました。私はこの「引っさげて」という言葉使いが好きです。何か、感じがよく出ているんです。

 外から来た新しい、力のある店が街を活性化させ、価値を保ち、あるいは上げてゆく。他から来た違った血を取り入れるのです。さて、こうして様々な店が趣向を凝らして出店してくるのですが、そのままでは全国各地の見本市の様相を呈してきそうに思えます。ところが、それがそうならないのが銀座なのです。銀座の店は個性の強い、他には代えられない凝りに凝った商品を並べ、高付加価値の、その店でしか手に入らないものを商うのです。現実的な話として銀座の土地の価格や賃貸料から判断して、一から投資した場合、どこでも売っているような商品を並べても成り立たないでしょうし、低価格販売も長くは続かないでしょう。利益を度外視しての広告効果やアンテナショップ、あるいはショウルームの要素を加味してようやく肯定できるという位のものです。色々な意味で「でき上がった店」が「でき上がったもの」を持ってくるのですが、そこからもう一歩「銀座らしい店」へ進化してゆくことが必要なのです。

 私共の場合、「粋上品」という感性を大切にものづくりを致しておりますが、これは父が銀座に店を構えてからのことです。京都の雅や上品さに江戸の粋を取り入れて、上品だけど野暮ったくない、粋だけど下品に落ちないという、マァ、良いとこどりをした訳で、銀座に出てきてから変化したのです。「東哉のものは、どこかスッキリしているね」と東京のお客様にも言って頂けるようになりましたが、祖父の頃のものとは、はっきり違います。

 今後、銀座がどうなってゆくのかはよく分かりませんが、少なくとも個々の店の問題と、街全体としての問題に分けて考えた方がよいようです。街としての話は、各種の開発計画、交通アクセスの問題、また、色々な仕掛け作りや催しを行って情報発信に努める等々、行政絡みの大きな事になるので、それはそれとして、ここでは私共の店に限って考えてみたいと思います。

 その店独特の、他にはないものをお客様にお見せしたい…と前に述べましたが、勢いオリジナル商品の製造ということにつながります。即ち、製造直売です。メーカー的要素を多く持った小売り、あるいは小売りもこなせるメーカーと言っても良いかもしれません。業種によっては、ロットの問題でこれは無理という事もあるでしょうが、幸い、京都のやきものは昔から多品種少量製産ですから、小回りがきき少量であっても新しいものが作れます。絵付けも含め、一日に何個できるかとか、本金一袋で何個描けるかとか、とにかく、他のどこで作ってもこれだけは必ずかかるという正味の原価が分かります。その原価を基に商品としての適正な売価を決めるので、価格には自信を持っています。百円ショップが流行っている現状で一個一万円の飯茶碗をどう考えるか。一個一万円でも安いと思える商品があり、反面、一個百円でも高い、値打ちがないと思える商品があるという価値観や鑑識眼・審美眼を持って事に当たりたいと思っています。仕事の水準を守り、より良いものをより適正な価格でご覧に入れたいのです。基本はあくまでも、真面目で正直な商売だと思っています。

 東哉でも最近は遅まきながらネット販売も始まり、まだまだヨチヨチ歩きですが、これからは世界が相手だと夢も膨らみます。世界各地で日本食ブームということもあり、和食器も日本人だけのものではなくなりつつあるようです。観光客の多い京都売舗では毎日英語を使い、その日の売上げは全て外国の方だったという日も珍しくありません。自国の文化を大切にしつつ、他国の文化を認めてこそ真に国際的と言えるのです。日本の銀座から世界の銀座へはばたきたいものです。
                      〜冊子 銀座15番街 No.170より〜



其の壱〜遊印にみる心意気〜


 品物を木箱に入れて仕立てる場合、箱書きをして東哉印を押します。この印は落款印(らっかんいん)といって、押す人の名前や雅号である事が大抵です。この他に別の印が押してある場合があり、これを遊印(ゆういん)といい、引首印や押脚印ともいうそうです。これは風流な詩句の一節や古語・格言等を印にしたもので、自分の心情や生き方を表したものが多いようです。
 義理の祖父にあたる初代陶哉は、気に入った品物に「陶器渡世」と押しています。”渡世”という言葉に少し身を引いてしまいがちですが、自分はこれで世の中を渡るのだという意気込みが伝わってきます。

 父は「此岸翁半(しがんおうはん)」。あちらの岸である彼岸(ひがん)ではなく、今、生きているこの世である此岸(しがん)で、自分はまだ半分しか生きていない、まだまだこれから…という意を込めています。二人それぞれ、生き方に対する心構えが違います。
 翻って私自身を考えてみると…華甲を向えたというのに、ただ気ぜわしく動き回っているだけ。これからはもう少し自分を見つめ直して何かカッコイイ遊印をつくらなくては…まだ遅くはないでしょう。何せ、「此岸翁半」の伜ですから。


 店主プロフィール



山田悦央
やまだよしお
・1948年(S23) 山田東哉の長男として京都に生まれる
・1966年(S41) 同志社高校卒業、武蔵野美術大学工芸工業デザイン科入学
・1970年(S45) 武蔵野美術大学インダストリアルデザイン科卒業
デンマーク国立美術大学(クンスト・ハンド・ヴェアク・スコーレン)陶芸科に留学
・1971年(S46) 当大学の教授で有名な陶芸家であったフィン・リュンゴード氏に誘われ製作助手となり、スウェーデン、その他での彼の個展を手伝う。また世界各国の美術系学生を対象としたデンマークのCopenhagen Summer Design Schoolでフィン教授について陶芸科の講師を務める。 同年末、帰国
・1972年(S47) (株)巧芸陶舗 東哉に入り父の手伝いを始める
・2001年(H13) 当主となる

茶の湯の稽古は祖父以来関係の深かった武者小路千家と定め、先代有隣斎宗匠の下に入門させて頂き、直門官和会会員として現在に至る。
2011年に乱飾り相伝を許され、十徳を拝受。